2014年 10月 17日更新
岡倉天心が明治末に新しい日本画の活動の拠点とした茨城県五浦を平成26年5月20日に訪問した。参加メンバーは山口、吉野夫妻、俣野夫妻、幸野、吉田夫妻、棚橋、大浦(棚橋の友人)、森夫妻、篠崎夫妻、酒井夫妻、三好夫妻の18名(敬称略、順不同)。バスを借り切っての日帰りツアーであり、バスは東京・丸ビル前を定刻の8時に出発した。
岡倉天心およびその師であるフェノロサの研究家である山口静一会員が最近の天心研究をバスの中で解説された。それによると従来は天心一派の五浦移転は都落ちだというのが通説だった。しかし財政的な裏付けがあったし、何よりも大観らの作品が早い時期から高い評価を受けたことが示しているように意気に燃えた芸術拠点(日本美術院)だと見られるようになったという。
岡倉天心の著作である『茶の本』はボストン美術館在職中に英語で書かれたが、日本語訳ばかりでなく多くの外国語に翻訳されていて現在でも増刷が繰り返されており、日本の文化を説いた名著として定着している。ところで天心は屈原の説 The
Sages move with the world.(聖人はよく世とともに推移す。(村岡 博訳))を引用したが、編集に当たったアメリカ人は意図を理解せずに ”The Sages move the world.” とwithを削除してしまったので天心・屈原の意図と反対の意味になっているとの山口会員の解説は興味深かった。これを受けて各国語に訳されているのは確かに問題だ。
10時半に茨城大学五浦美術文化研究所に到着した。山口会員と旧知の間柄である小泉晋弥教授が案内して下さった。2011年3月11日の東日本大震災の津波で天心が設計した六角堂は台座を残して流失してしまった。しかし有志からの寄金をもとに2012年4月に再建された。なお流失した六角堂を海中で捜査しているときに大きな水晶が発見されたが、堂の最上部の宝珠内部に有ったものだと確認できたのは津波の被害のせめてもの功であろうか。
教授の計らいで六角堂に入った。最近の研究で杜甫の草堂にならった亭子建築、京都頂法寺(六角堂)にならった仏堂、および床の間と炉を備えた茶室の3つの要素から成っていることが明かになったという。宝珠の水晶を仏舎利と見立てればインド・中国・日本を一体化した天心の思想 Asia is oneを具現したとも言えよう。
天心がボストンから取り寄せた大きな板硝子は津波にのまれたが、再建にあたり往時の製法を継承しているイギリスの会社から取り寄せた。その窓の外に穴の開いた奇岩が海の中にいくつも見えた。数億年前のこのあたりは深海にあってメタンガスが噴出していたが、その熱を求める生物が密集し、その生物の出す二酸化炭素が海中のカルシウムと反応してできた炭酸塩コンクリーションだそうで日本近海ではここだけにあるという。
教授の案内で天心旧邸に入った。津波は海面から10メートルを超えるこの家の床下まで入り込んだと言う。地震で壁面が崩れるなどの被害があったそうだ。古い建材を再利用していた。現存している建物は往時の半分とはいう。外には風呂場の跡も有って、きれいな模様のタイルが残っていた。隣接の「亜細亜ハ一つな里」石碑は事前の耐震対策で無事だった。
教授の丁寧な説明に感謝しつつ見学を終えたが、気が付くと予定を1時間ばかり超過していた。昼食を近くのホテルの広間で摂ったが、ここからの六角堂の眺めも素晴らしかった。ホテル内の露天風呂を楽しんだ人も居る。このホテルは横山大観の旧居跡地に建っているが館内に旧居が移築されていた。そこからの海の眺めは雄大であった。数々の名作を生み出した場所に立って感慨深かった。
午後は県立天心記念五浦美術館に移動した。この地で天心の指導を受けた横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の作品をじっくり鑑賞した。
帰りのバスの中で、山口会員の紹介で大観の歌う日本美術院の院歌を聴いた。天心の作詞は「谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい 奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」と格調高いが、大観が三味線の伴奏で歌うと違った風に聞こえた。
天心の作品 The Book of Tea と
The Ideals of the Eastの初版本を山口会員が回覧した。The
sages move the world. の箇所を見つけ出して楽しんだ。
道路事情が良く予定より1時間早く東京駅前に戻って来た。山口会員の指導を得て実りの多い旅になった。
(文責 担当幹事 三好 彰)