2015年 8月 31日更新

 東京芸術大学の大学美術館で開催された「ダブル・インパクト展」を513日に鑑賞した。参加したのは山口、吉野夫妻、藤盛夫妻、篠崎、酒井夫妻、吉田夫妻、棚橋、森夫妻、三好夫妻の15名(敬称略、順不同)であった。10時開館を待って一番乗りで入場した。

 江戸幕府は外国との貿易や渡航を制限した鎖国政策を取った。それを見直して開国を迫ったのが黒船でやった来たアメリカのペリー艦隊であった。国内で尊王攘夷の大論争があったが結局開国した。江戸幕府は崩壊し、王政復古の明治政府が誕生した。

 黒船が来ただけでも日本には大きなインパクトだったが、やってきた西洋人は日本の文化にインパクトを受けた。両方のインパクトをダブル・インパクトと称し、主として芸術品を通して見ようと言うのが「ダブル・インパクト展」である。

 最初に受けたインパクトは相互にとって大きかった。次の段階では日本が西洋の文化を受け入れた、文明開化である。そして西洋は日本の文化を取り入れてジャポニスムに代表される新局面を拓いた。このようにして日本は世界で一定の役割を果たすようになり近代国家の仲間入りが出来るまでになった。本展示会に「明治ニッポンの美」という副題がつけられていたが、展示品には開国直後(西暦1854)から明治30年後半までの半世紀にわたる名品が揃っていた。

日本ボストン会 The Boston Association of Japan

 東京芸術大学の一方の前身である東京美術学校の基礎を作ったのは初期の校長の岡倉天心だが、氏の東京大学での師であるフェノロサは日本から帰国後にボストン美術館に勤務し自らの収集品をもとに日本品の充実に努めた。フェノロサの示唆を受けたビゲロウやモース博士等が集めたボストン美術館の日本関係のコレクションは今では海外で最大の規模という。それゆえ東京芸術大学の大学美術館とボストン美術館が持っている作品でダブル・インパクトが体感できるわけである。

 天心の高弟である横山大観の卒業作品である「村童観猿翁」(芸大蔵)は牛の背に猿が乗っているのを子供が楽しげに見ている絵であるが、牛は校長の天心、猿は師の橋本雅邦、童はクラスメイトという。西欧のインパクトを受け止めて新し日本画の創成を目指した人々である、そう思って見ると楽しさが増した。

 西欧がインパクトを受けた画家に河鍋暁斎が居る。暁斎は収監されるなどで日本では物議を醸した画家だが西欧で今でも根強い人気がある。ボストン美術館の持つ膨大な暁斎のコレクションの中から大作「地獄太夫」が里帰りしていた。

 さてフェノロサや岡倉天心の研究で知られる山口靜一会員の案内で岡倉日出夫先生が参加された。先生は天心の甥で狩野芳崖の愛弟子だった岡倉秋水のご子孫であり、ご自身も洋画家である。狩野芳崖作の重要文化財「悲母観音像」(芸大蔵)と秋水による模写(ボストン美術館蔵)が並んで展示してあったが、像の立ち姿に差があるほか使われている顔料が同じでないなど興味深いお話が岡倉先生からあった。なお芳崖の「悲母観音像」はフーリア美術館(ワシントンDC)にもあるが製作時期から判断してフェノロサの指導を受ける前の作であり、芸大蔵のは指導を受けてからの作だと岡倉先生が指摘された。

 上野公園内にある明治8年創業の韻松亭で昼食を摂った。創業者の町田久成について山口会員から紹介があった。海外への渡航が許されていないときに密出国して英国に留学した薩摩藩士の一人であること、維新後に官吏となり博物館(当時は集古館)を構想して東京国立博物館の前身である東京帝室博物館の初代館長になったこと、一転して僧侶になり天心、フェノロサとビゲロを授戒させたこと、そして終焉の地がこの韻松亭であるなど数奇な生き方だったのを知った。

 なお留学仲間の森有礼の写真(ボストン美術館蔵)が展示されていたが、一行の出国から今年はちょうど150年目であり鹿児島では特別なイベントが行われているようだ。

 横山大観が一時期、韻松亭の店主だったことがあり、この展示会の鑑賞にふさわしい昼食会場であった。竹籠に盛られた色とりどりの料理を目でも楽しんだ。

 午後は山口会員の案内で東京国立博物館にある町田の顕彰碑を見学した。井上馨による碑文は難解な漢文だが山口会員が読み解かれた。

 さらに足を延ばして寛永寺の塔頭の津梁院にある墓地で故人を偲んだ。今回も山口会員の指導で充実した一日になった。
                                                       文責 担当幹事 三好 彰

日本ボストン会 The Boston Association of Japan

「ダブルインパクト展」の鑑賞             担当幹事 三好 彰