花冷えというよりも、花凍りとでも称したくなる冷たい雨の中をピンク色の傘を差して、友人と千鳥ヶ淵へ向かった。4月5日、日曜日。既に足首は冷え切り、冷気が足元から上がってくる。まだ明るさの残る午後5時半に、藤盛様御夫妻の笑顔に出会って、やっと温かい気持ちになれた。早速冷酒を取り出して身体を内から暖める。ちびりちびりと二杯目を頂く頃には、日本ボストン会のお懐かしい皆様のお顔が揃い、あちらこちらで笑顔と談笑の華がこぼれる。昨年来楽しみにしていた桜の花弁を冷酒に浮かせて杯を干す。(そのためにカップ式の冷酒を持参。)ほんのり花の香りが漂って私のささやかな願いは叶い、少し元気になった。桜の精の力だろうか。
しかし、今年は心から晴れやかな気持ちでさくらを眺めることが出来なかったことに悲しみを覚える。桜は今年も美しく華やかに日本の安らかなりしことを寿いで、また地に還っていく。だが同じこの地上で、意思的に殺戮と破壊が行われている事実を、死に直面している人々がいる事実を知る生身の人間として、心が塞ぐ。冷たい雨は、彼等の恐れと悲しみ、痛みの万分の一を、遠い日本の私に与えてくれているのか。
日本は原爆投下を経験して、「戦争」という人間の過ちを二度と繰り返さないと犠牲者に誓い、銘記している。私の両親は最初の子供を広島の原爆で亡くしている。姉は4歳だった。祖父はたまたま疎開先の宮島の別荘から広島市内の本宅に姉を連れ帰っていた。昭和20年8月6日の朝、姉がぐっすり眠っていた為、祖父はひとり宮島に戻ったがその後、原爆が投下された。爆風により、家は倒壊し、母と姉はその下敷きになった。隣接する会社の地下にいた父は火の廻り始めた家の天窓から、母を助け出すことが出来た。「お父ちゃま、たすけて〜。」という姉の声が幾度も聞こえたという。しかし、火の廻りの方が早く、父は姉を救うことができなかった。この話を母から聞いたのは、つい数年前のことである。姉の死から半世紀もの間言葉に紡ぐ事が出来なかった生々しい父と母の心情を、初めて知った。残酷な娘の死であったが、母はこう付け加えた。「若い女中さんも亡くなったの。他所様のお嬢さんをお預かりしていて、自分の娘だけが助かっていたら、申し訳が立たなかった。死んでくれて良かったのよ。」と。私の生まれる11年前の事である。その間に姉3人と兄1人(生後6ヶ月で病死)が生まれている。子供の一人一人が元気に成長することが両親の喜びだったに違いない。そんな両親の思いを知ることもなく、我々娘達は育まれ、既に姥桜に成長してしまった。
戦争は多くの人生に踏み込み生々しい傷を残す。戦争は、人間の中の悪を曝け出す。どんな善人も悪人も戦争を機に、己が内に棲む悪が顔を剥き出し、怒りと憎悪が残忍な行為となって暴れ他者を破壊する。この醜い戦争は、しかし遠い過去や他国の出来事であろうか。否、戦争が噴出させる人間の悪の火種は今此処に私自身の中にもある。私達の多くはたまたま幸いにして、人を傷つけず今日を生きている。だが、いつ、不本意に他者を傷つけ、また傷つけられるかもしれない。むしろ他者の心に一生消えない傷を負わせて知らぬ顔で生きているやもしれぬ。その時、戦争は最早外的なものではなく、個に内在するものとなる。自己の内の悪が般若となってその恐ろしい顔を曝け出す時、人はいかにしてこの般若に打ち勝つ強さを育んでいられようか。戦争は癒しがたい傷を両親に齎したが、父も母もそれぞれの長く苦しい内なる戦争に打ち勝って来た。己の般若に勝利し叡智に換え得た者は、決して地上の戦争を繰り返しはしない。本当の意味で戦争に打ち勝つとは、己を征した次元で語られるものなのではないだろうか。
戦没者墓苑である千鳥ヶ淵の桜の中で思う。武力に奢り、慢心の故に悲劇的敗戦国となった時代を乗り越えてきたはずの日本で、先哲の智慧を布石の縁として、謙虚にしかし気高く前進し、心を培い、絶対なる善への信念において交流できる時代を築いてゆくことを、今を生きる私達が意思として心得えること、それが戦没者への、また迷いつつ転びつつも歴史を生きた祖先たちへの真の慰霊なのではないだろうか。そして、何もわからず亡くなった姉のような犠牲者たちが叶えられなかった「生」を生きている私達が、同じ地球に生きる人々に、人間の精神史を後退させることを決して許さず、共に成長してゆくことを、日本人として建言してゆくこと。この意思に貫かれて初めて人々は互いの相違の中に「自由」であることの喜びを見出し、享受出来るのではないだろうか。
足は相変わらず冷え切っている。愛猫はそれでもかまわず寄り添って寝ている。冷たい一日だった。
後記:近隣の山種美術館では、桜の絵画の展示会、また飛島建設では、展望フロア-を一般に解放して下さっています。来年のお花見時のご参考になさって下さいませ。
2003年千鳥ヶ淵の桜に思う
水野 賀弥乃