The Boston Association of Japan
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旅行記・北海道ツアー

                    歴史を飲もう会 篠崎史朗


(5) 札幌市内の歴史的文化財巡り

 二日目の予定は、午前中市内の歴史的文化財巡り、冬季オリンピックの会場となった大倉山シャンツェでの昼食、午後は「北海道開拓記念館」と「開拓村」を見学し、新千歳空港へというものであった。

 午前中、市内で見学した時計台や旧道本庁舎などは、札幌を訪れる機会のある者には見馴れた存在かも知れないが、この様な文化財は時折観察し直し、展示資料を再閲覧することが大切である。それ迄の知識の不足を補い、誤った知識を正す機会になるかも知れないからである。

 残念ながら時間の関係で「豊平館」を見る機会がなかったが、市内の歴史的建造物を見ると、開拓時代の米国の影響は、単に技術や制度だけでなく、その頃の北海道の文化全般に及んだことが理解出来る。

 現在でもその威容を保つ赤煉瓦の旧道本庁舎には、完成の当時、多くの日本人が圧倒され、米国という窓を通して西洋文明の力を印象づけられたに違いない。

 今や札幌市の象徴的存在となった時計台は、てっきり最初から時計台そのものと、多分、多くの日本人が理解しているのではないか。しかし、それは事実とやや異なる。札幌農学校が体育目的に兵学を採用したことを前述したが、この建物は主としてその訓練の場とするために建築された多目的ホールであった。演舞場といわれる所以である。その一部であった鐘楼に数年後に米国から振り子時計を輸入し、現在見られるような姿になったものである。

 入口で頂戴するパンフレットには短い英文解説があり、そこでは当時のクラーク博士を“President of Massachusetts Agricultural College”と記されている。昨年春頃迄は、誤って“President of the Massachusetts State University of Agriculture”となっていた。この誤りを指摘したのは、今回の旅行に参加された当会の三好彰さん。誤りはHOMASを通して時計台に伝えられ訂正されたものである。

 関秀志さん。第1日目からお付き合い頂いた。HOMASの理事で、ライマンコレクション保存協会委員会常任委員も務められる北海道の歴史の専門家である。午後訪れる「北海道開拓記念館」に永年勤務し、「北海道開拓村」の建設の責任者として携わった経歴の持ち主である。市の資料館を訪れた際、屯田兵の入植など当時の様子について伺ったが、生き字引のようにお答え頂いた。この旅行で巡り会った忘れがたいお一人である。今回尋ね忘れたが、市内の歴史的建造物に「赤い星」が見られるので、一度機会を得てその由来を伺いたいと考えている。因みにサッポロビール昭和初期のラベルにも「赤い星」が見られる。

 大倉山ジャンプ台の競技場とウインター・スポーツ・ミュージアムをゆっくり見物し、昼食を取った後、旅程最後の「開拓記念館」と「開拓村」へと向かう。この両施設は北海道の歴史や自然、開拓時代の人々の生活に関する多くの展示物があり、北海道を幅広く勉強するのに最適の場所である。

 今回はアイヌを取り上げる迄には行かなかったが、次の機会に譲りたいと思っている。

 以下は余談である。明治30年代に洞爺湖の虻田村(現虻田町)でアイヌ人教育に献身された小矢部全一郎氏がおられる。この方は、若い頃、北海道に渡り、その折りにアイヌの境遇に心を傷めた。その後、勉学のために渡米された。宿願が叶い米国から戻った後、夫婦でアイヌの救済を試みられた。その動機は、1899年(明治32年)帰国直前にボストンで出版された半生記“A Japanese Robinson Crusoe”に記されている。遺品の本は子孫の元に残され、百年近く経た1991年に孫娘夫妻の努力で日本語に翻訳され、出版された。この孫娘は全一郎氏が生涯を終えた東京・品川区大井町の家で育ち、筆者とは共に遊び、学んだ幼な馴染みである。(完)


                    

今回の旅行で大変お世話になった、北海道・マサチューセッツ協会中垣正史事務局長
中垣正史北海道・マサチューセッツ協会事務局長

(写真提供 会員土居陽夫さん)