歴史を飲もう会 篠崎史朗
(2) クラーク博士と札幌農学校
北海道開拓の歴史におけるクラーク博士の地位について触れてみたい。
明治政府が国の富強を目指して設置した北海道開拓使は、黒田清隆を長官として、1872年(明治5年)に開拓十年計画に着手し、屯田兵制度を設け、移民を奨励して農業開拓を進めることとなった。短期に効果を挙げるため、開拓方法は経験豊かな外国人を招聘して指導を仰ぐこととした。その場合、黒田らが想定した手本が米国であった。米国のフロンティア開拓の進展と、東部の気候風土が北海道に類似していることがその理由とされている。
招聘された外国人の第1号は当時の米国農務省長官H.ケプロンで、開拓指導責任者兼顧問としてであった。大国の現役長官がいきなり極東日本の北辺の島の開拓にというのは、常識では考え難い人事だが、米国政府は太平洋への進出を、将来の国家的課題として、その頃、既に意識していたのだろうか。
開拓はこのケプロンの構想のもとに進められたが、それは単に農牧分野に止まらず、広く北海道のインフラストラクチャーの総合開発・整備を目指すものであったといえる。しかしその中でも、近代日本の形成に大きな影響を与える成果を生み出すこととなったのが、人材教育、即ち学校教育であった。
明治政府も教育を重視し、十年計画の当初から「開拓使仮学校」を東京に設置し、ケプロンの進言に従い外国人教師を投入していた。これが1776年(明治9年)に舞台を札幌に移し、来日したW.S.クラーク博士を教頭として、札幌農学校となり、やがて多くの逸材を日本社会に送りだす学舎となるのである。クラーク博士50歳の時、マサチューセッツ農科大学々長のまま休暇を取っての仕事であった。
この学校の素晴らしさはその進歩的なカリキュラムにあったといえる。それは全人格的教育を目的として、知育と並び徳育・体育を重視するものであった。具体的には農業専門科目だけでなく、英語の比重が大きく、人文・社会科学系科目も多かった。又、それ迄日本の教育に欠けていた弁論と討論を通しての学習が奨励された。徳育のため聖書を教材とし、体育科目で兵学が採用されていた。図書館までが学内に設置されていた。
こうした現代日本の教育にでも通用しそうな内容の学校が、明治の早い時期に存在したのは驚くべきことである。当時の為政者の先見性と教育にかけたクラーク博士の情熱が生み出したものであろう。カリキュラムや校則は彼自身がマサチューセッツ農科大学をモデルに作成したものだが、これらは彼の帰国後、教え子で彼に伴って来日した教師や卒業生を通し定着し、校風・伝統となっていった。
その中で、内村鑑三・新戸部稲造・宮部金吾他後世に名を残す多数の人材が育ち、彼らが又次の世代への人材を育成した。成果を次世代に残し、伝える、それが教育の大切な効果である。
今日まで多くの日本人がクラーク博士の名を忘れないのは、そのような効果の一つの原点に彼の存在を見るからだろう。
尚、記録によると、主導的役割を果たした外国人指導者の多くが米国マサチューセッツ州出身者である。クラーク博士は勿論、ケプロンや彼に伴って来日したB.S.ライマン、又、クラーク博士の帰国後に札幌農学校で人材育成に貢献したW.ホイラー他、歴代教頭は皆同州出身者であった。現在、北海道がマサチューセッツ州と提携・姉妹関係にあるのも、それを見ると、至極当然といえる。(続く)
(3) ロシア
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Dr. William S. Clark
(1826-1886)